逆境人生( 読書で病を治している話 )

院卒なのに新卒ニートになった。ラボ蓄のすえ倒れた理系院卒が本気で病を治す研究をしています。原因不明って言われたけど分からないなら自分で原因を探せばいいだけ。体調が良くなっていく話でまさに Re Life。

逆境人生#24  病魔を作り出したのは自分だ【自己洞察】


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前回に引き続き、自己洞察。

 

私が倒れたのは私の問題だが、「研究室で人が倒れた」という事実においては、少なくとも私を含め研究に携わっていた人間みなにも責任があるのではないのか。

 

怒りはふとしたきっかけで再燃する。

 

真のストレスフリーとは、ストレス要因と物理的距離をとることと、ストレス記憶の再燃を防げたときにはじめて成り立つのではないかと思う

ストレスフリーを実現させるため、私が倒れるに至った最大のストレス「ラボ蓄」だった記憶を整理しておこうと思う。

 

目次

 

第一章 大学四年

当研究室の権力構造と統治体制

私が所属していた研究室は、学部の中でも人数は多く、大きい組織だったと思う。

ピラミッドの頂点には教授が君臨していて、

その下に准教授A、助教授B、助教授C が各ポストについて、

彼らを班長とした A班、B班、C班という研究グループがあった。

そして、各グループに均等になるように 研究員(ポスドク)、博士、大学院生(修士)、卒業研究生(学部4年生)が配属する、というかたちをとっていた。

 

配属とテーマの決定

研究内容は、基本的に一つの分野を取り扱っていて、そこから分岐したテーマを創出し、Aという研究をA班が、Bという研究をB班、Cという研究をC班が行うという感じである。

 

例えば、「肺がん」の分野の研究室ならば、

  • 肺がんの原因となる遺伝子や因子を探索する研究、
  • 肺がんにおいてはどのような細胞環境が形成されているかの研究、
  • 肺がんに有効な化学物質を見つける研究、

などにテーマが分かれる。

 

私は、配属が決まった時に行われた「どのグループで卒業研究を行いたいか」というアンケートで B の研究に興味を持った。

しかし、B の研究を希望する生徒が多かったため、アンケート用紙に、「人数が多ければ C の研究に移ります」と記載した。

 

そして私は C グループに所属することになった。

 

こちらの記事でも書いたが、これは私の悪いくせで、枠が足りないなら真っ先に手を上げて人にそのポジションを譲ってしまう " お人好し " が発動した。

 

私は4年で就職するつもりはなく、同大学院に進学することを決めていた。

今思えば、この研究室に残り研究を続けていくのだから、自分の一番に興味を持ったテーマを選択すべきだった

成績も上位の方だったし、就職をする子もいたので、班の振り分けでは優遇されたのではないかと思う。

 

ポッと出てきた私のテーマ

C グループに所属することになったからには、その中でしっかり技術を学び研究をしていこうと決めた。

4先生の前期までは、実験の手技を習得することや、論文を読むのに慣れることが目的だったので、ほとんど先輩のお手伝いだった。

 

後期からは、各々の進路も決まっていたので一人一人に研究テーマが与えられ、個人で実験を進めていくことになる。

私は、大学院に進学も決まっていたので、同研究室で卒業研究に加え、後二年研究を行う時間があった。

私は、C グループで先生がやっていた研究のどれかを引き継ぐかたちでテーマをもらえるのかなと思っていたが、私のテーマは全く別の場所からポッと出てきたのだった。

 

それは、昔研究室でちょっとした発見があり、進めてはいなかったが教授がずっとやりたいと言っていた研究らしく、教授が退官するのもあと数年になったのでこの研究を掘り起こそう、となって始まったものだった。

 

その研究は私がメインになり、同期の子(就職組)と少しずつ役割を分けて研究を進めることになった。

 

第二章 修士一年

規模の拡大

無事に卒業研究発表を終え、修士一年になった時、私の扱っていた " 分子X " についての研究規模が拡大した。

おそらく退官が近づいた教授が、分子Xに関する論文をできるだけ多く出したかったのではないかと思う。

 

そのため、他の班でも分子X を扱うテーマで研究を行う学生が増え、今まで各班ごとに行っていた研究に加え、「グループ横断型分子Xプロジェクト」なるものが設立された。

 

私のテーマはというと、私の下についた卒業研究生の後輩が一人、他の班からも、博士、修士二年の先輩、卒業研究生、の三名が新たに加わり、計五人で研究を進めることとなった。

教授はこの研究に大きく期待していて、このテーマで一つ論文を出したいと思っていたのだろう。

しかしこの時点で退官まで残り三年、うまく結果が続けて出てもぎりぎり投稿ができるかどうかという時間だった。

 

思うように進まない研究

実際、人数が増えたところで良い結果がたくさん出たかというと全くだった。

 

系を変えたり、細胞を変えてみたりと様々なアプローチをとったが、十通り試して結果が一出るか出ないかという具合だった。

 

他の班から加わった博士、修士二年の先輩、卒業研究生が行った研究もポジデータと言えるような結果は一つも出なかった。

 

ミーティングでの経過報告により、教授や他の班の指導教員は、描いていた構想通りに結果が出ないことが分かり、「これは意外と時間もかかり難しいテーマだな」と気付いていた。

 

そのせいか、先生たちがミーティングで積極的に私にポジティブなアドバイスをくれたりしていた気がする。

 

私はこの一年、結果という結果はFig一つか二つ分くらいで、卒業研究時のものと合わせてもFigは三つあるかないかくらいしか出せていなかった。

それだけでは修士論文をまとめることができないので、結果を集めるためできるだけ実験に時間を割いていた。

 

日曜日や祝日にも研究室に足を運び、できるだけの実験をしていた。

 

正直、この頃から「結果がでなさすぎるからこのテーマは諦めた方が良いのではないか」と心が折れていた。

 

よくわからないテーマのために、私は祝日を潰し、友達とご飯に行く時間も削り何をやっているんだろう、と思うこともあった。

 

それとなく先生たちにも「厳しそうです」と伝えたことはあったが、「がんばろう」「これは絶対論文にまとめたい」という空気に押されていた。

それに今更テーマを変えたところで結局は修士論文までに結果を出せるとは思えなかった。

 

私が一番辛いなと感じていたことは、実験そのものというよりも、

一年やって結果がほとんど出ていないことへの焦りや、

テーマを降りたいと思ってももう降りられないからがんばるしかない、

という感情の板挟み状態だったことだ。

 

結果がでないと研究費が降りない世界だから仕方ないのだけれど、私は人よりも「結果が出ていないとここにいてはいけないような気がするな」と感じていた。

そういう環境が辛く、夏に一度海外へ逃げた。

 

行き先は北米大陸の西海岸、カナダのバンクーバーだ。

研究室から離れたいという衝動で一人でポッと来てしまったが、英語もろくに話せない私に街はとても優しかった。

お土産屋さんにふらっと入ったときも、とても丁寧に説明してくれて、言葉はあまりわからなかったけど、店員さんの優しさは十分すぎるほどに伝わった。

 

「何もなくてもあなたはここにいて良いんだよ」と、街がそういっている気がした。

 

そんな現実逃避旅の終盤は最悪だった。

帰りのフライトを待っている時につい開いてしまったメール。

班長の先生から「そろそろ帰りの飛行機ですか。明日から実験ができるように細胞を起こしておきました。」という連絡。

 

私のペースで実験が進んでいないことがよく分かる。

 

私は「世のため」になる研究をしているのではなく、「教授の退官を飾るため」に研究をしているのではないかと思うこともあった。

 

そしてまたあの日常がくるのか、という絶望を抱え飛行機に搭乗したことを今でも覚えている。

 

そんな修士一年も終わる頃、ともに研究をしていた博士はそのまま来年も研究員(ポスドク♂)として残るため、新たなテーマを持ち始めて、私の研究からは離れていった。

下に付いていた後輩は別の大学院へ、修士二年の先輩とその下に付いていた卒業研究生はそのまま卒業し研究室を離れていった。

 

 

私は「一人になってしまったな。」

そう思いながらデスクに就活が終わったらやることリストを残し、就職活動期間に入った。

 

 

私のプライドのために補足

これは自慢とかではなく、自分を守るために書くのだが、「研究が思うように進まなかったのは私が無能だったわけではない」、ということは言っておきたい。

上述したように、他の班から動員された先輩たちも同じように良い結果を出せた訳ではないというのもその証拠の一つ。

 また、私は客観的に見ても教授や班長助教授C 、先輩・後輩・同期からの評価も高かった方だと思う。

卒業研究時はあまり目立つような功績を残していた訳ではないが、修士一年になり初めての文献紹介を終えた後、当時私の班にいた博士の先輩は、「初めての文献紹介でしっかり発表・質疑応答をこなせていて、今まで見てきた後輩の中で一番出来がよかった」と褒めてくれた。

 

同期からもスペックの高さを褒められたこともあり、後輩からはそのクリエイティブさからか「匠」と呼ばれていたことも(照)

 

さらに、修士論文発表後には、班長助教授 C からは「要旨・修士論文ともに良く書けていて、ほとんど手直しは必要なかった。修論だけでなく、今までの文献紹介や研究報告、学生実習、データや試薬の引き継ぎなどの手際も良く手がかからなかった。自立して研究を進められていたし、後輩の面倒見も良い。すべてを含めても今まで C 班で教えてきた生徒の中で一番出来の良い子だった。」と褒めて頂けた。

 

また、教授にも「とても優秀」と評価を頂いたこともあった。

 

「自己評価がもっと高くて良いと思う」と言われることもあった。

 

私の同期はみんな優秀だった。

その分少しでも劣りが目立つと「自分はだめだな」と思いやすかったのかもしれない。

 

 

第三章 修士二年

帰ってきた研究員

就職活動を終え、研究室に戻ってきたのは私が修士二年になった四月の終わりだった。

 

この年は、一年前に発足した「グループ横断型分子Xプロジェクト」なるものはいつの間にかなくなり、A グループと C グループはもう分子Xを扱う研究しかしていない、という状態だった。

 

さらに、私が所属していた C グループでは私のテーマを細分化し、昨年までは別のテーマをやっていた修士一年の後輩、新たに入ってきた卒業研究生五人が私のテーマをお手伝いするという構図になっていた。

 

これに関しては、班長助教授C の「教授が人員を増やせということで私の班は全員このテーマになってしまった。私が進めていたテーマもいったんストップ。それなのにグループ B 班だけほとんど無関与とはどういうことか。」という不満の声も耳にした。

 

そして一番の変化は、私の班に新たに「研究員(ポスドク♀)」が加わったことだった。

ポスドク♀は、アメリカ留学の期限が終わり、ちょうど春に日本に戻ってきたばかりだという。

ポスドク♀は留学前は准教授A 率いる A グループ所属で、ファーストオーサーの論文もいくつか出している実績のある人だった。

教授たちも彼女なら結果を出してくれるだろうと考え、ポスドク♀を私たちのCグループに入れた。

 

そして研究の方はというと、この辺りから「論文を今年中に出す」という計画に変わったのか、上層部だけのミーティングが行われ、誰がどの実験をいつまでにやる、という計画が出来上がっていた。

私は直接その計画を教授から聞くことはなく、班長助教授 C から計画表のコピーをもらい、「あなたの担当はこれ」という指示を受けた。

 

私の仕事は例えるとほぼ「工場」だった。

実験に必要なタンパク質(6種類)をひたすら作ること。(その後のアッセイも計画表に入っていたが、タンパク質が出来上がらなければ始まらない。)

 

そしてこれが後に私の体力を奪うことになる。

 

ポスドク♀は、同じ研究をする中で手技も良く「できる人」という雰囲気を感じた。

その分「私のできなさ」が目立った。

 

ポスドク♀にもらった細胞は起こした次の日にコンタミして死んだ。

今までできていたタンパク質がうまく発現しなくなり作れなくなった。

私だけでなく、助教授C や他の人がやっても同様に発現はうまくいかず作れなくなった。

 

私は自分で細胞を使ってアッセイをする時間もないほど毎日「タンパク精製」に追われていた。

こちらの記事でも書いたが、たった 1ml のタンパク溶液を作るのに一週間近くかかる。

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それを6種類だ。

前まで出来ていた系が止まり作れなくなった種類もある。

 

ミーティングでは、私の報告する結果は必要なタンパク質がどれだけ出来たかということだけ。

一方、そのタンパク質などを使って細胞でアッセイをしていたポスドク♀は、ポジティブに見える結果をたくさん報告していた。

 

その年の五月から六月頃、私は修士二年にもなって結果を全然出せていないどころか、タンパク質をつくることもまともに出来なくなって「自分はここにいる意味がない、使えない人材だ」と自分を責めるようになった

きっと周りのみんなもそう思っているのではないかと思い込むようにもなり、毎日を申し訳ない気持ちで過ごしていた。

 

(当時の私のツイッター投稿)

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タンパク溶液は、精製が終わってもそこに活性がなければ意味がない。

失活していれば作り直し。

やっと一段落したと思っても、1ml しかない溶液はすぐになくなり、アッセイをしているポスドク♀から「なくなったから作ってほしい」と言われる、その繰り返しの日々だった。

 

また、そこには自分で作ったタンパク質を使って実験することができない悔しさがあった。

 

卒業研究生たちにも、色々な実験をさせてあげたかったけど、毎日のように大変なタンパク精製ばかり手伝わせて申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。

 

この精神的な苦しさは私にしか分からないだろう。

 

また、プロトコルのコピーをポスドク♀に渡した際は、自分が理解できなかったからと、「あなたの書き方が悪い」と私のせいにされた。

その数字が何の濃度か、単位は何を使っているも書いていたので考えれば分かるはずなのにと反論したい気持ちも押し殺した

 

この頃、私が自分を責めるようになったのはポスドク♀と過ごすようになったからだけではなかった。

このポスドク♀が帰ってきたことにより態度が大きく変わった准教授の影響もあった。

 

態度が急変する准教授

ポスドク♀が帰ってきてから、准教授はこれまで消極的だったこの研究に対する態度を反転させた

自分がポスドク♀と主導し、年内にも論文を投稿するぞ、という勢いをも感じていた。

 

私が自己嫌悪を感じていたのは、ただポスドク♀がポジティブな結果ばかりを出していたからではない。

それに伴い、「彼女はあれだけ結果を出しているのだから君も早く結果を出しなさい」という圧が准教授からかけられていたからだ。

(私が遅れているというよりも、この研究をあと半年で終わらせたいがために急いでいた)

 

結果を出さないといけないのは私が一番分かっていた。

論文はともあれ、自分の修士論文がかかっていたからだ。

結果がなければ私は修士を終えることができない。

 

五月の中頃、セミナー室で当研究室の教授が理事を務める学会の準備が行われた。

私もそのお手伝いをしていたが、準備やリハーサルが終わり片付けをしていたところ、「君は片付けはいいから早く実験をして結果を出しなさい」と言われ、一足先に研究室に戻らされた。

 

その後も何度か准教授から「早く結果を出しなさい」と言われた。

 

また、結果を報告した際には「あまり信用できるデータではない。彼女(ポスドク♀)にも一回実験してもらってから考える。」などの発言もあった。

これに関しては、私の結果だけでなく、助教授 C や私の班の人の結果に対しては全体的に否定的な意見が多かった。(助教授 C もそう言っていた)

 

自分たち(ポスドク♀)の結果しか信用ができないという空気が出ていた。

そしてそれは空気だけでなく、実際に彼らがそのようなことを言っているのがきこえた。

 

私を含め、C グループに対する悪口。(Cグループだけではなかったが)

自分たちはこれだけ出来るのになぜみんなは出来ないのか、という文句。

特に C グループのミーティング終わりなど、二人が研究室の隅で何時間も話し込んでいるのは気分が悪かった。

聞こえていないとでも思っているのだろうか。

 

准教授はポスドク♀をひいきしすぎていたと思う。

それだけでなくお金をもらい、教員ともあろう立場の人間が生徒の悪口を言うのはどうなのかと思う。

そう言っている時間があるなら " できない生徒 " を教育すべきではないのだろうか。

それともわざと指導放棄をしていたのだろうか。

 

当時の私はそう思っていたがそれを面と向かって言えるような人間ではなかった

修士と言えどお金を払い学びを受けている身。

指導をしてもらう権利があるのだからしっかり言うべきだったと反省している。

 

こぼれた涙

准教授からの圧もあり、「夏までに結果を出さなくては」という焦り。

自分は全然何も出来ていないという自己否定。

良い結果がでなければまた悪口を言われるという恐怖。

 

ポスドク♀に怒られる夢もみた。

 

(当時の私のツイッター投稿)

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自分に存在価値はないのではないかと思わされていたような気がする。

 

まさに准教授とポスドク♀は私にとってエナジーバンパイアそのものだった。

(下記記事参照)

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以前から日曜日や祝日にも実験をしに行っていたが、さらに追いつめられていた私は、コアタイム内(月曜〜土曜、9:00~20:00)で実験をしていては絶対に終わらないと思い、朝早く行き、夜も終バスを見送るようになった。

 

もう全部投げ捨ててしまおうかとも思っていたが、逃げたら負けを認めるみたいで悔しかった。

朝も少し遅刻してしまおうかと考えても、" 間に合わないダメな奴 " と悪口を言われる気がして、わざと遅刻することもなかった。

 

私の気力はもう、「結果を出さないと悪口を言われたり否定されてしまうからがんばるしかない」という自己防衛のためのモチベーションただ一つしか残っていなかった

 

そんな私にポスドク♂(昨年テーマを離れた人)はこう言った。

「まだそんな研究やってたの?結果なんて出ないって。やめれば?」

 

気付いたら涙があふれてしまっていた。

 

" やめれるのならばとっくにやめている "

それでも頑張っていたのに「結果なんてでないよ」と言われてしまうと私は存在する価値を失う。

ポスドク♂もまだ少しこのテーマに関わっていたけど、厳しいテーマだと知っていた。

きっと教授に面と向かって言えないわだかまりを私に向かって吐き出したんだ。

それを私に言ってもどうしようもないと知っていたのに。

 

そんな些細な一言に不覚にも傷ついてしまった自分が憎い

 

「辛いです」「やめたいです」

言えない私が悪かった

 

「大丈夫」「やらなくちゃ」

自分についた嘘

 

私はいつからこんなに打たれ弱くなったのだろう。

 

 

崩壊

そして六月の終わり、その日も始発の前に登校し、終バスに乗った。

始発の前に登校したのは、前日夜にポスドク♀からのダメ出しメールを読んでしまったからだ。

バスを降りて歩いている間に体が倒れ込んだ。

(詳しくはこちら👇)

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兆候

まさか精神的なストレスで自分が体を壊すとは思わなかった。

 

しかし今思えばその兆候はあったのかもしれない。

 

朝は本当に起きれなかった。

目が覚めないというより、体を起こすことができなかった。

 

(当時の私のツイッター投稿)

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研究室に遊びにきた先輩には「やつれたんじゃない」と心配された。

そうかな?と体重を測ったら春先の健康診断時より3Kgほど落ちていた。

 

倒れる前日はセミナーの日で、自分が文献紹介の日だった。

いつもより時間をかけられていなかったのもあるが、終わったあと助教授C に、「めずらしく事前準備が少なかったわね」と言われた。

いつもより質疑応答に自信がなかったように見えたらしい。

 

そういえば夏も前になったその時期に皮膚が異常に乾燥して痒かった。

皮膚科に行く時間もないなあと思っていたところだった。

 

気付かぬ間に体はどんどん蝕まれていたんだ。

 

謝罪ができない大人たち

倒れたからというと、まったく回復する兆しがなく二ヶ月ほど研究室を休んでいた。

この時班長と教授には、「栄養失調で倒れたので」しばらくお休みをもらいたいとメールをした。

 

この時期に初めて金縛りにあった。

准教授から「いつくるの?」というメールが来る悪夢も何度か見た。

 

(当時の私のツイッター投稿)

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そうとう心と体が疲れていたのだと思う。これを満身創痍というのかもしれない。

毎日ベッドの上でぼーっとし、ご飯を食べ、歩けるときは少し外を歩いてみるという生活を送っていた。

自分の実験が止まってしまったことよりも、後輩の中間発表に向けて指導が止まってしまったことの方が申し訳なかった。

 

「中間発表、全然四年生たち理解してないじゃない。」

准教授やポスドク♀にそう言われるような気がして落ち着かなかった。

 

しかし...

春先に「この研究は急いでいるから四年生にゆっくり教えている暇はない」と言っていたのは誰だろうか。

そんなことを思い出して怒りが込み上げてくることもあった。

 

研究室の同期や先輩、後輩たちがお見舞いの連絡をくれる中、班長助教授C からメールが届いた。

内容は、「准教授が自分が圧をかけすぎたのが原因かもと言っているが、あなたの食生活の乱れによる栄養失調なのよね?」というものだった。

 

助教授Cはまさか准教授から圧がかかっているなんて思ってもいなかったのだろう。

 

実際、准教授やポスドク♀の存在は大きなストレスになっていたが、それを先生たちに伝える勇気はなかった

もしそうだと言ったら何か大きな問題になるのではないかと、面倒くさいことになるかもしれない、と。

 

それにしても准教授にそんな自覚があったことに驚いた。

そして自覚があるのならば私に直接謝罪をするべきだったのではないかと思う。

 

確かに私が倒れたのは私の問題だ。

しかし「研究室で人が倒れた」という事実においては、少なくとも私を含め研究に携わっていた人間みなに責任があるのではないかと思う。

 

私が倒れてから、大人たちはみんな責任を逃れたがっていた。

それとも本当に自覚がなかったのだろうか。

 

教授は、私がそのまま不登校になるのではと心配したのか、研究室の評価を下げたくなかったのか、私に実験はしなくてもいいからとりあえず研究室には顔を出すよううながしてきた。

 

助教授C は、後輩の実験の失敗をカバーしていることに疲れたのではと後輩のせいにしていた。

准教授やポスドク♀に比べたら後輩のミスなどストレスにも入らない。

それなのにそういう空気を作り出し、後輩に「私たちのせいですか...」と思わせていたことも腹立だしかった。

 

ポスドク♀は、私が休んだせいなのか、実験の負担を減らしたいといっていたようだ。

 

誰も自分たちが人を追いつめたと思っていない。

准教授は自覚があったにも関わらず謝罪をしない。

 

憎いな、そんな怒りがさらに私をストレスにさらしていた。

 

秋になる頃、とりあえず研究室に足を運べるようになった。

九月末に学会での発表が決まっていたが、新幹線での移動はとても体力的な不安があった。

 

一度、「体調が不安なので学会には行きたくないです」と伝えたが、「本人以外に発表者を変えるには色々面倒」という理由で突き返され、とりあえず学会先へ行くことになった。

 

おそらく、教授がこのテーマをいち早く発表し、周りがどう反応するかを見たかったのではないだろうか。

ちなみにポスドク♀は別のテーマで同じ時間帯に発表することが決まっていたので私が発表するしかなかったのではないかと思う。

 

学会発表のためのデータは、何をどう出すか、というところは全部上の人達が決めた。

私のものだけでは不十分で、ポスドク♀からデータをもらうことになったが、それをお願いしにいくのも億劫だった。

そんなことまでして発表したいテーマではない。

 

また、腰を低くしデータを下さいとお願いしに言った際は、「今渡すよ。まだ実験ずらせるし。」と少し嫌みが混じっていたのは気のせいだろうか。

 

さらに、いつのまにか准教授の「今年中に論文にまとめる」という勢いはなくなっていた。

おそらく今年中には無理だと判断されたのだとは思うが、今度は「もっとゆっくり時間をかけるべき」、というスタンスに変わっていた

 

これには助教授C も、「言うことがころころ変わりついていけない」と准教授を批難するようになった。

そして准教授を敵とみなすようになってから、「本当は准教授から相当な圧がかかってたんじゃないの?」とか、私が准教授と話しているのを見かけるたび「大丈夫?」という謎な擁護が始まった。

 

私から見れば助教授Cも「言うことがころころ変わる」に当てはまるのだが、と思っていた。

 

結局私の修士論文は、学会で発表した内容に少し肉付けしたようなものとなり、ポスドク♀からのデータをもらうことで完成した。

 

そして私の卒業と同時に、准教授とポスドク♀は別の大学へ去っていった。

後輩から聞いた話、あのとき私がいきなり作れなくなったタンパク質は私の卒業後に普通に作れるようになったという。

何かを変えた訳でもなく原因は未だ不明らしい。

 

そこには、私が卒業したことに加え、准教授とポスドク♀が研究室からいなくなった事実がある。

もしかしたら准教授とポスドク♀が私の邪魔をしていたのではないかとも思ってしまう。

発現トラブルをおこすことでタンパク精製に時間をかけさせ、さらに私の細胞をコンタミさせて使えなくすることでポスドク♀だけがポジティブな結果を出せるよう仕組んでいたのではないかと。

 

さすがに考えすぎかもしれないが、彼らにはそう思わすほどの悪行実績があるではないか。

 

そんな憶測はさておき、その後研究は私の後輩たちに引き継がれ、私が卒業して半年ほどで論文に投稿されたらしい。

結局私の修士論文に近いかたちで投稿され、「ゆっくり時間をかけて」さらに結果を出すという話はどこへいったのだろう。

そう言っていた本人たちも投稿を待たずして研究室を去った。

もうとりあえず投稿しておきたい、というだけだったのかインパクトファクターもとても低い誌に投稿したらしい。

 

論文は、セカンドオーサーに私の名前があった。

大して結果も出していないのに。

 

名前を載せることが私への罪滅ぼしなのだろうか。

 

あの時、四年生の指導も後回しにしてまで急いだ意味は何だったのだろう。

この研究は世間の役に立つ内容だったのだろうか。

私の修士二年間もいったい何だったのだろうか。

 

答えのない疑問に不満や怒りの感情が重なり、私の頭の中で起爆剤として残された。

 

それは時々発火し私の感情を昂らせていた。

 

 

 

第四章 卒業後

「気付き」のために生まれた病魔

みんなの中では終わったこと、それは私が一生背負う十字架。

そうおもうだけで、卒業してからも行き場のない怒りはおさまらなかった。

 

しかし、病を治そうと読書を続ける中で気付いたことがある。

 

彼らに謝罪をされていたら、この苦痛はおさまっただろうか?

私の体調は良くなっただろうか?

 

きっと答えは「No」だ。

 

なぜなら、この苦しみは私の中の問題だからだ。

 

誰が悪いかを決めたり、誰かが責任をとるということがあっても、少し気が楽になるくらいで、私が一度抱えてしまった苦痛はなくならなかったと思う。

 

私に必要だったのは、こうなってしまった自分を受けれ、自分としっかり向き合うことなのではないかと。

そうしなくては、また同じことがあれば自分を押し殺し弱らせてしまう。

きっとそうならないために病魔がやってきて、「次に備えよ」と言ってくれている気がした。

 

私は病気になり、自分の悪いところがはっきり見えた

打たれ弱くてはだめで、しっかり立ち向かわなくてはならないということを学んだ。

 

そのまま会社に就職していたら、また会社という組織に押しつぶされていたかもしれない。

私は、そういう組織の中で働くよりも、自分の内にあるものを表現するクリエイティブな仕事の方が向いているのではないか、そう気付くことが出来た。

結果論だが、病になり就職できなくて良かったと思う。

 

病魔のおかげで自分のことをもっと知れた気がする。

 

 

背負った十字架を武器に生きる

病魔が現れたおかげで、私は自分のことをより深く知ることができた。

自分がこれからやりたいこと、実現させたいことは何か。

アイディアが溢れるように湧いてきた。

 

それは、この経験をした私にしかできないこともある。

やりがいや生きる意味にも繋がり、意欲がわいてくる。

 

誰かを憎んだり、復讐したりしても自分は幸せになれない

きっと、相手を恨まなくなる一番の復讐は、「自分自身が最高に幸せになること」なのではないかと思う。

 

研究室で出会ってしまった大人たち。

誰かの悪口を言ったり、責任を誰かに押し付け自分の実績を誇ろうとしている人達、彼らもそんな日々が本当の幸せだとは思っていないだろう。

 

以前、半沢直樹の小説から心に刺さった文章を取り上げた記事を書いたが、👇

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これからの私に必要なことはこういうことなのだと思う。

 

おかしいと思ったことをおかしいと言える人間になる。

地位や組織のためではなく、人のためになるような活動をしていく。

自分に正直に生きる幸せを感じていく。

 

そんな私を見て彼らが「いいなあ」と羨ましがればいい。

自分たちが如何に不誠実だったか気づけばいい。

 

きっとこれから私が生きていくこと自体が彼らへの倍返しになるのではないか、と。

 

 

つづく

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